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水とみどりとボートを愛する熊本県ボート協会

プロフィールprofile

組織・役員

 名誉会長  室原 亥十二
 会長 三井 宣之 
 副会長  陣内 冨男  奥村 政義  野村 裕清
 顧問 宮原 敏秀 清田 信照 和田 建一郎 今村 宏 吉川 正憲
理事長 増岡 信二

熊本県ボート協会について

規約および慶弔規程(PDF)


長久の漕跡
  〜熊本県ボート100年の沿革〜

・熊本ボート発祥〜端艇時代〜(西暦1895年明治28年)
1895 運動の種類多しと雖、我が国に於いて国民的遊技として、大いに奨励さるべからざるもの三あり。曰く撃剣、曰く柔道、曰くボート是なり。 (牛後生投)「運動の種類多しと雖、我が国に於いて国民的遊技として、大いに奨励さるべからざるもの三あり。曰く撃剣、曰く柔道、曰くボート是なり。前二者は、古の武士の課業となり居りしものにて、今日なほ全国に行はる。至る処、カチ々々ドサ々々の声を聞かざるはなし。彼の春気よりも和に、秋気よりも烈しき、日本の精神大和魂は、実に之により養成せられたり。

而して今なお之によりて発育膨張しつつあるなり。ただボートは、三府二三の学校を除けば、殆ど之なしと云うも不可なからん。夫れ我国は海国なり。故に我国民は海国民たらざるべからず、而も桃源洞裏の海国民たるにあらずして、世界の大海国民と相馳駆する。大々的大海国民たらざるべからず。而してボートは、我国民が、此大々的大海国民たるに於て、必須欠くべからざる用具なりとす。

何となれば、ボーチングの普及は、我国民の海事思想を発達せしむるに於いて、大勢力を有すればなり。試に思へ。全国尋中以上幾万の学生が、腕鉄の如く、好<んで>で海若と遊び喜びて怒濤と交わるに至らば、是実に隠然海上の一敵国にあらずや。かくのごとくなれば、我国民の海事思想の発達は、実に驚くべきものあらんとす。嗚呼ボートなるかな。ボートなるかな。人或いは学校の漕艇に水なきを憂ふものあり。然れども見よ。江津湖は出水の清水をたたえていて、淡々鏡の如く、里弱の内に横はるにあらずや。或は、百貫、或は川尻、共に是三里弱の内にあり。細波常に白砂を洗ふて、鉄腕の健児ほしげなる風情あり。若し夫れ土曜の昼、日曜の朝、頭大の握飯を腰にし、草鞋を穿ひて奮然之に向はば、ただ、瞬時を要するのみ、何の労かこれあらんや。

是に於て、静に艇を下し、艇長一声の号令の下に、クリュウがこぎ出す勇猛の気勢には、海若も恐れなん。怒濤も静まりなん、□愉快ならずや。況んや春期又は夏期の休暇に際し、遠漕隊を組織し、舳艫相含み、ボートソングを歌ひつつ、歴史、地質、或いは動植物の探求を兼ねて、筑紫の内海を一週するに至りて、壮絶快絶、実に是漕艇の第一義にして、大々的大海国の本色を現はすものなるに於いてをや。此の如くんば、我校は」実に運動の凡ての点に於いて、覇を天下に称ふるに足る。大にボートを造れ。而して大いに漕げ。
吾人は龍南会に向ひて、切にボート部を新設せんことを望みて已まざるなり。



1895 明治28年11月 第五高等学校端艇部発足  <龍南雑誌41号>

龍南会附属端艇規則

第3条  本部に部長1名を置き、員に就き之を推選す
第6条 名誉部員は部費として入部申し込みの当月より毎月別表に掲ぐる所の金額を寄付するものとする。
第7条 通常部員の入部申し込みの当月より十ヶ月間毎月金八銭を十ヶ月以降は毎月三銭を部費と して納るものとする。

別表
月俸額 毎月出金額
百円以上 三拾銭 (0.3%)
七拾円以上 弐拾銭 (0.285%)
五拾円以上 拾五銭 (0.3%)
参拾円以上 拾 銭 (0.33%)
弐拾円以上 七銭五厘(0.375%)
拾円以上 五銭 (0.5%)
拾円未満 参銭 (0


1896 明治29年1月25日 花陵、金峰、龍田、進水
1896 明治29年4月12日 第一回春季競漕大会
明治29年4月13日 夏目金之助着任
1896 明治29年12月 艇庫建築
     明治30年如月14日第一回三部生聯合競漕会 竜南54号 P63〜67
1897 明治30年4月11日 第二回春期端艇大会 竜南56号P51〜
1897 明治30年5月20日  資力乏しく、寄付を仰ぐ。発起人に二代部長夏目漱石の名あり

端艇部の大飛躍          竜南57号P71〜75

 端艇漕技の鍛躯養神に補益あるは、既に定論のあるなり。況や、吾邦土爾来海国なして国民海国的精神の必要ある。大陸国の此にあらざるをや、吾端艇部の起る所以、実にここにありて存す。設立以来、率に駸々として進運に向ひ来りしも、未だ以て永遠の基礎確立せりといふべからず、則ち相図り、之を我校に縁ある諸子の義侠の心に訴へて、一大飛躍を試み、鎮西の地に、海国的国民遊戯の先導となり、以て天下海事志想の先駆たらんとす。其拡張主意書及び諸有志に贈れる書翰は載せて次にあり。

拝啓時下 御清穆奉恭賀候偖当高等学校内端艇部儀創立以来漸々隆盛に赴むき前途益多望の運命に相成居候處先年製造の端艇漸々朽廃の場合に立至り不便不尠候に就ては部内有志のも者相謀り此際大いに該部を拡張致し一般学生のため永遠の基礎を定むる都合に御座候然る處端艇部は他の運動と異にして之が拡張を実行致し候には少なからぬ金額を要し候事とて到底部内二三の有志者のみにては微力奈何ともいたし方なく因て甚だ唐突の至とは存候得共該部拡張の主意書弁に予算編成の上洽く諸賢多用中恐縮の至とは存候得共別紙御読覧の上多少に関らず御出金の程願上候敬具追白学課の都合も有之事務取扱上困難を感じ候條右御含の上第五高等学校内夏目金之助迄何分の御回答賜り度候也  五月二十日石坂二郎 吉田久太郎 富田定壽 岩佐正雄 松原常興 夏目金之助 櫻井房記 中川元(校長)
    
          竜南会附属端艇部拡張主意書
運動の目的とする所は筋骨を錬磨し志気を養成するにあり而して其組織上より区別すれば単独及び協同の二となすを得べし二者の間敢て?輊あるにあらずと雖も体力志気の外別に協同一致の美風を養成せしむる者を求むれば必ずや協同組織の運動を取らざるを得ず。是れ実に欧米諸国遊戯の特長にして彼邦人に一致協力の美風ある蓋し偶然にあらざるべし。今や百般文物の輸入と共に此等の諸遊戯亦続々我国に伝来し「ベースボール」「ロンテニス」「クリケット」「ラクロース」等其主なる者協同組織にあらざるはなし而して端艇競漕の一技は特に国民的遊戯として奨励すべき者たるを信ず何を以て之を言ふ夫れ国を太平洋上に建て東西には新◆旧両大陸を控え南方遙かに南洋諸島に連接し通商貿易の要路◆く我に集中せざるなし即ち実に国防の上に於けるのみならず一国経済の上より之を論ずるも我国民たる者焉ぞ此天興の好形勢を利用して益通商貿易を盛にし太平洋上の商権を掌握して以て国運の膨張に資せざる可けんや則ち海運事業の振起拡張せざる可からざる亦◆に吾人の喋々を待んや然れども翻て考ふるに若し識者ありて雄絶快絶の計画を海上に試みんと欲するも一般国民にして海事思想を?がば如何是猶ほ樵夫に向て漁◆の画策を勧むるが如く吾人其成功に付いて疑なき能はざるなり然らば則ち海運事業の隆盛を欲せば又務めて国民の海事思想を養はざるべからず国民の海事思想を養はんと欲するものは先づ国民を誘て海的嗜好を起こさしむるわ勉めざるべからず。
而して海的嗜好を起こさしむるには端艇を盛んならしむる亦其の一法に非ずや是れ実に吾人が海国的国民遊戯として端艇競漕を推す所以なり抑も端艇競漕の我国に行はるゝは今を距ること始んど十六七年前帝国大学々生の競漕に濫觴<らんしょう:起源>し爾来漸く盛んに◆て遂に地方に及び近年に至ては苟<いやし>も水利を有する学校は競ふて之を設け争ふて之が拡張を図らざるものなしと雖も之を海国的国民遊戯となすの希望より見れば前途尚遼遠と云ふべし我校有志夙<つと>に此に感ずる所あり◆に一大端艇部を起して体力を強健にし志気を養成し、併せて西海に於ける海国遊戯の開導者たらんことを以て自ら任じ苦心経営?▲に一昨年に至て之が設立を見るに至りしも奈何せん草創の際資力給せず規模狭少にして◆に設立の目的を達するに足らざるのみならず我部員の操艇にすら尚ほ而して今や所属の端艇も漸次老朽し競漕艇として又使用に耐えざらんとするに至れり是に於てか更に一大拡張を行ひ以て設立当初の素志を貫かんと欲するなり顧ふに一昨年28年琵琶湖に於いて全国聯合大競漕会ありしより我国端艇会の気運は百尺竿頭一歩進めたるの観あり而して我部も亦本年を以て之が聯合に加わることとなれり事小技に似たりと雖も苟<いやしく>も全国同盟に加はる以上は豈<あ>に空しく人後に落つるに忍びんや且つ同盟諸学校を見るに第一高等学校は言を俟<ま>たず第二第三第四諸学校皆我に此して優勢の端艇部を有せざるはなし然らば則ち我部の拡張豈<あ>に一日も緩ふすることを得べけんや然りと雖も拡張の事たる莫大の経費を要し到底我人学生の能く弁ずる所にあらず乃ち巳むを得ず端艇競漕に関する平生の懐抱を述べ併せて拡張の今日に巳む可からざる所以を陳し以て本校に縁故ある大方諸君の宏量に訴ふ諸君希くば吾人の懐抱を讃え我端艇部の拡張を助成せられんこと謹白

明治30年5月第五高等学校@南会附属端艇部
学校職員賛成者
 中川元 櫻井房記 内田周平 杉山岩三郎 佐久間信恭 菅虎雄 夏目金之助 羽生慶三郎 田丸卓郎 近重眞澄 中川久和 賀来熊二郎 武藤虎太 長谷川貞一郎 中沼清蔵 大浦 肇 黒本 植 加藤晴比古 山川信次郎 南部常次郎 黒木千尋 篠本二郎

          拡張費予算
一金 壱千六百三拾圓也
内訳
七百圓  競漕艇(六丁櫂 長三十尺 幅三尺五寸)四艘製造費
四百圓  艇庫(奥行六間 巾六間半)一棟建設費     五拾圓 吊艇架三基建造費
四拾圓 浚渫費及び土工費  八拾圓  石垣費     百五拾圓 土地買上費


明治30年5月 収容端艇旅順大連廻航記事 竜南59号P63号
明治30年6月12日付け 校長より鎮守府長官宛譲渡照会をし、佐世保鎮守府より日清戦争の戦利品「鎮遠号」
艦載カッター二艘を譲り受ける。廻航のため佐世保に富田、両名滞在。
明治30年7月末まで佐世保町字濱田町海岸通船係留場にて修理、8月2日百貫港回漕、8月3日百貫港をたち4日に
無事江津湖に安着した。
廻航参加者は、五高生16名、元五高生1名、商船学校生徒2名、攻玉社生徒1名、済々黌生徒5名、
数学院及び鵬翼舎生徒5名の30名
であった。
     「大連」「旅順」<176号>
100円の借金を夏目金之助補填する。
1898 明治31年 短艇部編入 竜南65号P66
     明治31年 遠航の記  竜南65号P44〜55
明治31年 一部聯合競漕会 竜南66号P73〜74
明治31年 遠航の記 竜南65号P38〜49
明治31年 端艇部第2回遠航竜南65号P92〜101
明治31年 大日本聯合端艇競漕会基金募集の檄 竜南67号P68〜70
明治31年 各部記事    竜南69号P71
1898 明治32年 @南端艇部規定 竜南73号P113
明治32年 補欠と改選 竜南74号P55
明治32年 端艇部拡張報告 竜南81号P103〜105
1899 明治33年 工学部ボートレース 竜南82号P103
1900 明治34年 端艇部報告   竜南89号P79
     明治34年 第6回端艇第競漕会 竜南85号P120〜129
明治 遠漕航隊日記  竜南90号
1901 明治35年 習学寮第4回端艇競漕会 竜南96号P63〜68
     明治35年 有明倶楽部遠航記事 竜南97号P68−72
     明治35年 第8回短艇大会 竜南100号
     明治    習学寮ボート大会 竜南101号
     明治    習学寮4回   竜南106号
     明治35年 一二三部遠航隊日記 竜南付録P1−19(3,4欠落)
1902 明治36年 第8回端艇第大競漕会 竜南99号P76−83
     明治36年 遠航隊 八代中学 竜南101号
     明治36年 学寮ボート競争 竜南102号P101
     明治36年 短艇部報 竜南102号P101
1903 明治37年 第9回端艇第大競漕会 竜南106号P56−61
1904 明治38年 短艇遠航記事 竜南110号付録P1−23
     明治38年 第10回端艇大競漕会竜南 @南111号
1905 明治39年 第11回端艇第大競漕会 竜南117号P95−96
     明治39年 短艇部報 竜南118号P84−87
     明治39年 端艇部新造計算書 竜南119号P129
1906 明治40年 第12回@南会端艇競漕大会記事竜南120号P85−9
      明治40年 39年度@南会予算 竜南120号P94−95
     明治40年 参部江@倶楽部遠漕記  竜南121号付録P1−20
1907 明治41年 40年度@南会予算 竜南125号P84
     明治41年 三部遠航日誌  竜南125号付録P1−5
明治 端艇大会    竜南125号
明治41年 短艇競争大会記事  竜南126号付録P70−74
明治 三部遠航日記  竜南129号
明治43年 一部遠航記   竜南130号付録P1−5
明治43年 端艇競漕大会記事 竜南131号P65−70
明治44年 第三部遠航日誌 竜南139号P6−14
明治44年 端艇部報 竜南141号P70−71
明治 年 短艇の存続   竜南142号
明治45年 端艇新造費決算書 竜南143号P83
明治45年 短艇の存立奈何 @南144 P103−105
明治45年 第三部遠航日誌 竜南145号P105−116
※冒頭に「短艇の存立奈何」への反論
明治45年 春季短艇競漕大会 竜南146号P93−95

参考 @南物語
五高その世界 端艇部長で奔走 ボートマン(五高優勝)
@南への郷愁(大正3年3月15日発行「@南の春は未だ来たらず」「吾らの見たる端艇事件」)
@南へ回顧 ボート優勝とその後 栗山奉行
@南回顧
五高五十年誌
大正2年 一部短艇遠航記  竜南149号 付録P1−18

明治45年? 端艇部艇庫   竜南145号
大正 一部端艇遠航  竜南150号
大正 一部遠航、一部合宿日誌竜南155号
大正3年 江津湖の水位、端艇新造 竜南156号
大正 端艇新造竜南157号
大正4年 端艇大会  竜南158号
大正4年 春期短艇大会、予算竜南160号
大正5年 三角遠航記 @南162号P160 
大正5年 端艇競漕大会、予算竜南164号P123
大正6年?端艇裕仁親王(昭和天皇18才)競漕大会 竜南171号
大正7年 端艇競漕会 @南167号P98−101
大正8年 端艇競漕会 @南171号P123−124

大正10年(1920)第五高等学校30年記念誌 176号154
端艇部
1,創始期 明治28年〜31年4月
2,発展期 明治35年5月〜39年4月
3,守成期 明治39年〜現今
大正11年 @南会役員 @南181号P123−124
大正11年 大正11年度@南会決算報告書 @南185号P3−4
大正11年 端艇部報 @南182号P56−58

大正13年 対科レース廃止、5人乗り、漕法竜南189号
大正13年 短艇漕法について @南191号P94−98

大正   部歌  竜南196号
大正15年 漕艇部部歌 @南198号P64
昭和元年 ?1923年 端艇部報ー竝に競漕の本質展開−@南222号P100
昭和2年  端艇部報 @南201号P130
昭和4年  端艇部合宿日誌 @南212号P60ー63
昭和6年  端艇部報 @南218号P
昭和6年(1932?) 低調、部報、 222号
昭和12年 端艇部全国制覇を顧みて @南238号P147ー154
見取り図
昭和13年 端艇部報 @南241号P109ー110
昭和14年? 各部東征の跡を顧みて @南243号P101ー106
13年8月17日
昭和15年(1940)第5高等学校50周年 全国制覇 238号
昭和16年 端艇部 @南248号P128ー130
昭和16年 端艇部 @南249号P81
昭和  部報 241号
空白の8年間
昭和24年3月 第五高等学校スポーツ活動完了する。
昭和25年3月 学制改革により第五高等学校解消

・1950 昭和25年1月 熊本県ボート復興〜漕艇時代〜

フィックス艇(6人漕ぎ固定席)期 昭和25年(1950)から33年(1958)

             フィックスの回想  武藤貞一郎 @水2号 P8〜9

熊本大学に学生が入学したのは、24年9月、五高は25年3月まで存在した。スポーツ活動は24年3月で終っていた。五高端艇部のボートは江津湖下流にどんどん流失する有様で、勿体ない話であった。法文学部ではボツボツ二、三の部ができつつあったが、漕艇部員を募ったら、すぐに相当の人数が集まってきた。漕ごうと云うのではなく、、ボートを引き揚げようというのに、学部200人のところを20人集まったのだから大したものである。増水期になる前にと25年1月から引き揚げにかかった。3月までかかって、木部あたりに漂流していたボートを一隻(ちから)、沈没していたのを二隻(みどり、艇名不明)を引き揚げた。第六橋下流5米程の水底に眠っていたのを一隻(かせ)を引き揚げた。「かせ」は深いので漁師に頼んだが、「みどり」のときは部員がザブン!!とばかり飛び込んでロープをつけた。水を吸ったフィックスはちょっとやそっとでは揚がるものではなかった。やっと引き揚げたボートを漕いで帰ろうにもストレッチャーもローロックもなく、(ラダーの受金さえないものもあった。)オールを縄で結びつけて漕がねばならなかったので、ちょっと強い北風が吹くと岸に吹き寄せられてどうにもならなかった。おまけに水はどんどん入ってくるし、手足の感覚がなくなり、ほうほうのていで中の瀬に上がったこともあった。引き揚げに時間がかかり、江津湖の真ん中で日が暮れ、西も東も分からなくなり、浅瀬に乗り上げ、降りて押そうにも下は底無しの沼で自分自身が危ないということもあった。当時は、未だ食糧難の時代で特に寮生の疲労は甚だしく、この点で非常に江藤さんのお世話になった。なお、ボートの引き上げは、現大学病院皮膚科の荒尾先生に指導していただいた。
 25年4月から、水洩りだけを修理して練習を始めた。希望に燃えてオールを握ったが、ストラップは勿論ストレッチャーもないので体の反動を利用して起き上がらねばならず、ちょっと油断をするとひっくり返る有様であった。それでも漕ぐ者は集まった。
26年になると大学は三年生まで学生が入り、工学部からも参加があったので、クルーを組んで練習を始めた。ストラップシートも大学と江藤さんのお陰で格好がついた。しかし、大雨にたたられ、練習六日で九州地区大学レガッタ(於福岡)に出漕した。集まる大学は、我が熊本大学のほかに九大、西南大、福岡学芸大、長崎大、鹿大。
どういう訳か我がクルーの評判は物凄く、皆、恐れをなしていたのには驚いた。ところが結果は・・・・。云わない方が当時のクルー諸氏の名誉である。兎に角、レース後半などは、ラストスパートをかけるにしのびなく、又かけることも出来ない程であった。

1952 昭和27年7月  2回九州地区大学体育大会(漕艇競技は第1回大会?)
      博多湾 フィックス 
      参加校 長崎大 熊本大 鹿児島大 九州大 福岡学芸大 西南大 6校
1953 昭和28年7月  3回九州地区大学体育大会 博多港内1000mコース   フィックス
  29   4回  不明 30   5回  不明 31   6回 不明
1957 昭和32年  7回九州地区大学体育大会


九州もシェルフォアー幕開け
1957 昭和32年秋 第1回熊大・九大定期戦東杯争奪レガッタ(シェルフォア)始まる。
        九州内のシェルフォアのレースとしては最初
1958  昭和33年   8回 フィックスによる大会は最後?
1959  昭和34年   9回  不明

・県内高校にボート部誕生 

八代高、八代商業(第一)、八代東高、八代東高坂本分校 
昭和34年7月12日(日 )初練習     〜八代高女子クルー創部3ヶ月で、国体6位入賞〜

           高校時代   岩下真一 龍水3号P13
まだまだ、元気はあれど、色気なしの高校二年の時の、それも忘れもしない1959年7月12日でありました。その日は、八代市内に四つの高校に漕艇部が出来て荒瀬ダムで初漕ぎをやる日でありました。翌年の15回熊本国体に備えて、ナックルフォアが四艇購入され、初めて球磨川の青い、広い水に浮かんでいた。そのピカピカの新艇に、我々は、物珍しそうに乗り込み、あまりにも巨大なオールに驚き、そして思うように動かないオールにあわてたものです。
しかし、ちょうど破木に合宿していた熊大ボート部のお兄さま達に指導してもらって、やがてどうにか漕げるようになりました。それから夏休みが来て、毎日、八代から荒瀬ダムに通い続けました。むし暑くてたまらない満員のディーゼルカーに30分も揺られ、葉木に着くとすぐに炎天下にボートを漕ぐ。あの頃は、唯、黙々と漕いでいるのが楽しくて楽しくて少しもきつくはありませんでした。それを夏休みの40日間を1日も欠かさないほ程、繰り返したものであります。・・・中略・・・とにかく熱心に漕いだかいあって、我々八代高クルーは9月の県体で4分7秒のタテムで優勝し、また八高は女子クルーも優勝して我々は、男女仲良く、10月の東京国体に出場することになりました。コーチとして内田さん(熊大生)と田中さん(熊大生)も一緒に上京し、ボートを漕ぐ者全てのあこがれの戸田コースで漕げる喜びと、全国から集まったオアーズマンと共に力を競うということで有頂天でした。しかし、漕ぎはじめて3ヶ月もたっていない悲しさ。我々は伝統ある他の高校にはとうてい及ばず、1次敗者復活戦で生きのびてやっとこさ2回戦まで進んだだけでした。それにひきかえ女子クルーは、ついていたのか実力というものがあったのか、1回戦では天覧試合をやるという栄光をつかみ、その後2回戦、3回戦と勝ち進んで、とうとう全国第6位に入賞してしまった。


熊本県漕艇協会発足
1960  昭和35年   10回   不明  第4回熊大・九大定期戦 
            第15回熊本国民体育大会漕艇競技開催
1961  昭和36年   11回   不明
1962  昭和37年   12回   不明  11月九大、熊大、西南大による新人戦
・舵手付きフォアーによるインカレ時代 昭和38年(1963)〜昭和56年(1981)
  38.7  13回九州地区インカレ 鹿児島川内川1500m
       シェルフォアによる九州地区インカレのスタート。この年から鹿児島大にシェルフォアー導入
       38年現在 SF所有校 熊大 九大 西南大 鹿大 福学大
   11  第1回全九州大学新人競漕大会始まる。福岡多々良川1000m
       熊大 九大 西南大 鹿大 福学大 
  39.7  14回九州地区インカレ 福岡多々良川1000m
      第2回全九州ジュニア選手権大会
      東京オリンピック
  40.7  15回九州地区インカレ 福岡多々良川1000m
       鹿大 熊大 熊商大 西南大 福学大 九大
      3回全九州ジュニア選手権大会 福岡多々良川1000m
       鹿大 熊大 西南大 福学大 九大 
       鹿児島大学全日本大学選手権大会舵手付きフォアーで3位入賞する。
          緑水会レガッタ 奥村政義
  41.7  16回九州地区インカレ 熊本緑川1000mコース
      佐賀大より委嘱(当時は佐賀大にボート部はなかった)
       鹿大 熊大 熊商大 西南大 福学大 九大 
      4回全九州ジュニア選手権大会 福岡瀬板貯水池1000m
昭和41年 8月2〜4日 第14回全国高等学校漕艇選手権大会   青森大湊コース
         熊本商科大学付属高校準優勝      増岡信二
監督 馬場国義 S藤井寿光 3増岡信二 2井出啓一郎 B上田清隆 補漕 坂田和昭 田中幸一

江津湖にボートコースを
                      匂坂 浩    龍水8号P5〜6


私は子どもの頃からよく考えることがあった。
歴史上の重大事件の時に居合わせた人はどう感じて居たのだろうかということを、幸か不幸か、今次の対戦には参加し、万死に一生を得るし、医学的にもペニシリン、ストマイの発見、気管内麻酔や心臓、胸手術に携わる幸運にも恵まれた。

こうして千載一遇ともいえる機会には恵まれたのであるが、扠、そのときの印象は、と言うと、どうもはっきりしせず、幼時からの決心に比して甘すぎるうらみがある。これは、その時々の心の動きを性格に記載しておかなかったことによる。このことは一面、すべての事件を神話伝説化する傾向となるのである。
さて、熊本におけるボートのひとつの歴史的転機が今作られようとしている。現在を無駄に過ごしたならば到底、市内においてボートレースを見る機会は失われてしまうのである。画津湖にボートレースのコースを設けることがいまや実現されんとしているのであり、現在の部員諸君の努力によりそのことを是非にも成功させるべく、私どもはともに一丸となって神話の第一項を刻みたいと思う。

十一月二十日朝、室原先生より電話あり、熊本商大付属高校のボート部長、馬場先生とともに石坂市長に対する陳情に行こうとの相談である。ちょうどこの日の正午の、緑水会盃レースの予告を記事にしてもらうべく、熊日記者氏と会うことにしていたので、その場所を市役所として、連絡と陳情を一挙に済ますことにした。予め部員諸君により作成されたレースのプログラムを持つと同時に、市長を説得するために、五高人物史(昭33年)という大冊を持参した。
諸先輩方が如何に、熊本の印象として立田山と、画津湖に深い憧れをもっているかが、多数の先輩の手記によって語られているからである。

馬場先生は長文の趣意書を印刷したもの及び地図を持参され、その準備と熱意には私共両人共に圧倒された。記者クラブに行くと、緑水会レースの記事の筆をとっていた若い記者氏は、熊日の資料綴りの内、江津湖関係のものを持参していて、既に昭和三十八年に、県漕艇協会よりの陳情がなされていた事がコースの略図入りで切り抜いてあった。私はここでも事業の一貫性と永続性とについて考えさせられた。

また、馬場先生よりも尋ねられたので熊本のボート創立の頃を上記の本より抜書する。
『夏目漱石 明治29年4月講師として着任7月教授33年5月ー36年1月英国留学 同年3月末まで在任。坊ちゃんで有名な松山中学から五高に就任早々竜南会の短艇部長に選ばれた。
その頃、日清戦争で分捕った大形のボート二艇を海軍省から払い下げられる事になり、この船を引き取るために竜南会より短艇部員数名を佐世保に派して回航した事がある。

竜南の三四郎たちは大いに飲食して百円足らずを使い込み、その弁償の方法がたたずに各先生方を歴訪して懇願したが、平素信用がないために全部断られた。程なく夏目先生がこれを聞いて直ちに全額を償い、同時に部長を辞めてしまった。赴任早々である上に、薄給でありながら一言の愚痴もいわずきれいにさばいた。』
いろいろと記者に話しているうちに彼も非常に乗り気と乗った。特に道徳教育を推進している熊日としては、『女子高生の立ち入り禁止」という江津湖周辺の現状を粛清するためにも学生スポーツの健全な発展に力を貸してもらいたいと力説した。

都市計画部に、山隈部長と中田次長を訪ね、中田氏より水辺公園の予定図を示しつつ、湖底の浚渫についての方針を聞き、実際の工事のに関しては色々と行政上の困難があり、特に周辺地域の協力を要請する点を示される。
中田次長とともに市長室に行ったが他行中で星子助役と会う。同氏は先の「ボシタ祭り」に市長とともに馬上豊かに参加されたが、その予行を熊大馬術部でされていた関係もあり、非常に好意的で実現に関しては、市の執行部のみでなく、議会方面、更に、河川敷は、県の管轄でもあるのでその方面にも運動するよう非常に楽しい雰囲気で語り合った。

以上を同行した記者の目がどんな記事になるであろうかと期待していた翌朝の熊日紙は、関連記事である水前寺海苔の保存と並べて、予想以上に大きなスペースを割き、第二回目であるために遠慮していた緑水会の記事も非常に人目を引くものであった。具体的方面に関しては日夜、湖畔で訓練を続けられる馬場先生の御苦心の賜であり心から御礼申し上げたい。

多少順準を誤ったのであるが、県漕艇協会長、鰐淵先生、理事長、貴田先生にもお会いして御報告すると共に大いにがんばる様激励された。熊本五高会(県知事、市長も会員)役員会にてもまた、来秋の五高創立八十周年記念日までに画津湖が生き返った姿となる様努力を惜しまぬことを約された。又、機会を得て寺本県知事、石坂市長にもお目にかかり趣旨をご説明申し上げたところ、各方面に対して抜かりなく陳情をするように好意あるお答を得た。

ともかく矢は弦を離れた。何とかして実現せねばならない、そのための一応の原案ともなるものを思いつくままに述べさせていただくならば、
1、早急に県漕艇協会各グループの代表者の方々に参集していただき、意見の交換を行うと共によい知恵を貸していただくこと。
2、県、市に対する陳情のルートを知り、陳情書を作成送付すること。
3、協会内に小委員会を作り、コースの実測を行い、完成後の万全を期すること。
4、一部の方々には工事に際して現場において助言していただき、場合により協力する。
5、予定コースをブイを持って明示し、完成に対する意慾を充実すると共に、通行の市民に対し周知を計る。
 以上のような事は最低限度としてぜひ今年度内にもやり遂げなければならぬと考えられる。
 もとより緑水会という有名無実のごとき存在の一員である私共には何も出来ず、現役の諸氏の御奮斗にすべてはかかっていると思う。こうして一歩一歩前進する事により、1000メートルコース実現を期して、熊本の新しい歴史の一項が書かれるものと信じる。

熊本ボート部の諸兄はこの重大時期に際し、全力を振るって後進のためにも御努力をお願いする次第である。
恐らくは、諸兄が将来、中年、若しくは初老のOBとして、江津湖畔に立たれるとき、レース後のビールの満をひかれる時、それは後輩の諸君への永く語り伝えられるべき神話の一説であり、何よりの餞(はなむけ)になるべきものであろうと信じて疑わない。


 42.7  17回九州地区インカレ 多々良川 
       鹿大 熊大 熊商大 西南大 福教大 九大
  43.7.  18回九州地区インカレ(熊本球磨川)1000mコースで(長崎大委託)
       西南大 九大 鹿大 熊大 熊商大 福教大
  44   19回九州地区インカレ 球磨川1500mコース 優勝鹿大
  45   20回九州地区インカレ 遠賀川1000m
      8回全九州ジュニア選手権大会 大隅湖2000m
       西南大 九大 鹿大 熊大 熊商大 佐大 
      福岡教育大の提案により、九州学生漕艇連盟発足   
  46   21回 不明
  47.7  22回九州地区インカレ(福岡名島海岸) 当番九州工業大 主管 九州大
       鹿大 熊大 熊商大 九大 佐大 西南大 福教大 7大学
      10回新人戦 球磨川
       熊大 九大 佐大AB 西南大 福教大
  48   23回九州地区インカレ 大隅湖2000m
  49   24回  不明
  50   25回  不明
      13回九州学生新人競漕大会 日田市夜明ダム
       熊大 熊商大 佐大 西南大 福教大 九大
  51   26回 不明
      14回(12回の誤り)九州学生新人競漕大会 荒瀬ダム
       熊大AB 熊商大 佐大 西南大 福教大 宮大 長大 九大AB
  52   27回九州地区インカレ(佐賀松浦川)
       初めてエイト種目を実施  
  53   28回 不明
  54   29回九州地区インカレ(佐賀松浦川) 
  55   30回 不明
  55.11.13九州地区大学体育大会総務委員会で縮小案検討。

嘆願書
九州地区大學体育大会検討委員会
委員長 大分大学平野教授 殿

我々、九州学生漕艇連盟に加盟する学生一同は、今回のインカレからのボート種目削除に対し次の三点の理由により、反対し、ここに一同の署名を添えて削除の中止を嘆願します。

一 九州内における学生主催のボート種目の公式戦は、現在二試合しかなく、 またその中でもインカレは、各大学とも最も力を入れている試合であり、これがなくなることは、公式戦の数が極端に少なくなる上に、各大学の活動意 欲を大きく喪失させることになる事。
注 (学生主催公式戦二試合とは、インカレと秋に行われる九州学生新人競漕大会であり、この他九州漕艇連盟主催の全九州レガッタがあり、学生種目が設定されていた。しかし全九州レガッタは、国体九州ブロック予選となり、国体県予選を勝ち抜いたクルーだけの参加に限定された。)
二 今回の答申は、全く一方的なものであり、当事者である各大学ボート部には、何ら相談がなされなかったこと。
三 仮に削除された場合、それに代わる公式戦を設ける事は、経費そのほかの面で、非常に困難な面がある事。
                                          九州学生層艇連盟一同

  56   31回九州地区インカレ(鹿児島大隅湖) 
      第31回鹿児島大会を最後に九州インカレ漕艇競技中止    

(3)シェルフォア、エイト定期戦時代 昭和57年(1982)〜平成2年(1991) 
  57 不明
  58   第21回九州学生新人競漕大会 荒瀬ダム
      熊大 熊商大AB 佐大 西南大 福教大 熊工大 宮大 長大
      定期戦エイト 九大AB 佐大 熊大 
      定期戦シェルフォア 熊大 佐大 西南大 宮大
  59   不明
  60   不明
  61   不明
        大分大学、同好会から部に昇格する。
  62 不明
  63.   九州インカレ復活検討(九学漕)
        第5回九州学生レガッタ 当番校 西南学院大学
 H元.   九州インカレ復活検討(九学漕)  
       各大学学生部(総務委員) 当番校総務委員会へ復活陳情
  2   第7回九州レガッタ(10,27,28)荒瀬ダム
      28回九州学生新人競漕大会 荒瀬ダム 当番校熊本商科大学、熊本短期大学
  3.  漕艇競技中止10年目 
      29回九州学生新人競漕大会 荒瀬ダム 当番校熊本大学
  56   31回九州地区インカレ(鹿児島大隅湖) 
      第31回鹿児島大会を最後に九州インカレ漕艇競技中止    


     九 州 地 区 イ ン カ レ 復 活 提 案 
                     
 平成3年2月16日に2年度九州学生漕艇連盟総会が熊本県福祉会館で行われました。九州地区インカレで漕艇競技が廃止されて10年目のこの会で九州地区インカレ復活が議題に取り上げられ、インカレ復活の第一歩として、希望大学だけで自主開催することが決められました。この機会に九州学生漕艇連盟の現状と九州地区インカレ(漕艇競技)について経過と今後の課題、それにインカレ(漕艇競技)のありかたについて私見を述べて見たいと思います。
 九州学生漕艇連盟は日本学生漕艇連盟の下部組織として昭和45年に発足しました。規約では「学生漕艇の技術向上と普及発展及び加盟大学の親睦を目的として@競漕会A懇親会B講習会Cその他本連盟の目的を達成するに必要な事業を行う」となっており、毎年、熊本で総会が行われています。現在は秋に九州学生新人競漕大会(第27回1963年)と新人戦の際行っていたいくつかの定期戦をまとめた九州学生レガッタ(第6回)を同時に行っています。九州学生レガッタはインカレが廃止されたために開催されるようになった大会ですが、すでに全日本選手権や国体、そして全医体も終わり、多くの大学が新メンバーになっており、九州の学生選手権を競う大会ではなく、次のシーズンへ向けての大会として位置付けらます。またこの大会には医学系大学や鹿児島大学は出場しません。言い替えると現在は18大学20団体もありながら、九州の大学チャンピオンを決める大会はないと言えます。ちなみに学生連盟のブロック別の団体数と学生の大会は次の通りです。九州は関東、関西について加盟団体が多いブロックといえます。

ブロック        大学数(団体数)     学生大会

北海道 4大学7団体(北大は全学、医学、歯学、水産) ナシ
東北 11大学13団体(東北は全学、医学、歯学) ナシ
北信越 4大学4団体 ナシ
関東 38大学44団体 関東学生競漕選手権
関東ナックル選手権
全国大学スカル選手権
東海 14大学14団体 東海学生漕艇選手権
関西 20大学22団体 秋季リーグ
(京都は全学、医学 滋賀は教育と経済) 新人レガッタ
中国 7大学9団体(鳥取と広島は全学、医学) 中国学生漕艇選手権
四国 4大学4団体 四国学生漕艇選手権
九州 18大学20団体 熊本大学 熊本商科大 九州学生新人競漕大会
熊本工業大 熊本大医学部 九州工大 九州学生レガッタ
九州大 福岡教育大 西南大 福岡大医学部
九産医科大 長崎大 長崎大医学部 佐賀大 佐賀医科大 大分大 宮崎大
宮崎医科大 鹿児島大 鹿屋体育大 琉球大

九州インカレは九州地区大学体育協議会規約施行細則により実施されている大会です。主な規約内容は次の通りです。

九州地区体育大会協議会規約施行細則
第2条 原則として以下の当番大学グループ順による。
@九工・産医・医短、北九、九歯、八幡、九女、九共、西日本、九女短、西南女短、東筑紫短、11大学 (昭和57年)(平成3年度)
A福岡、九芸工、第一経、第一薬、東和、純真女短、香蘭女短、第一保短、筑紫女短、福岡女短 11大学 (昭和58年)(平成4年度)
B佐賀、久留米、久留米工、西九、九大谷短、佐賀短、佐賀女短 7大学 (昭和59年)(平成5年度?)
C九州、西南、中村、福歯、福女、精華女短、中村短、西日本短 8大学(昭和60年)(平成6年度?)
D大分、別府、日本文理、大分芸短、別府女短、宮崎、南九 7大学(昭和61年)
E長崎、長崎県立、活水、長崎総合科学、長崎県女短、活水女短、長崎女短、長崎商科短、 8大學(昭和62年)
F熊本、熊本女、九東海大、熊工、熊商 6大学(昭和63年)(平成9年度?)
G(久留米医)、九産、福工、東海福岡教養、近畿女短、近畿九州工  6大學(平成元年)
H 鹿児島、鹿屋体、鹿児島経済、第一工、鹿児島女、鹿県女短、鹿女短、鹿短、第一幼教短、琉球、沖縄国際、沖縄

第3条 実施種目の基準は、次の通りとする。
 @現行25種目以内とし、新規種目は認めない。
 A現行実施種目のうち参加大学が、男子10女子5に満なくなった種目については、
  実施の可否を総務委員会において検討する。
 B当番大学グループの事情により実施できない種目は、その年度に限り取りやめる
  こととする。

第4条 大会経費
 大会経費については、当番大学の校費等による負担は行わない

9ブロックになりますが、 幸いどのブロックにもボート実施校が含まれています。 ABは条件を満たしていますが、@については協議会での検討が必要と考えられます。
 網かけしている団体は現在九州地区大学体育協議会に加盟していません。これらの大学の参加方法(経費負担)の解決策が必要です。

九州インカレ漕艇競技の経緯
(2)九州地区学生漕艇界の現状
  @   全九州レガッタから九州国体へ移行
       国体ブロック予選となり、成年種目への参加は可能(4+.1×.2-)
       大学生の部はなくなり、県予選を通過したクルーのみの出漕
       大会参加の機会減少
       最近出漕しているのは長崎大、佐賀大、鹿児島大、熊本商大、熊本大、宮崎大
  A   実業団、クラブクルーが少ないため各県とも成年種目に大学生を当てている。
  B   エイト種目 6月九州朝日 10月九州学生新人戦(九州学生レガッタ)のみ
  C   九州地区学生漕艇界は鹿大以外全国大会での活躍がなく、低迷を続けている。
  D   九州地区大学で漕艇競技実施校は増加傾向にある。  ・

(3)九州地区大学体育大会規約

       平成元年2月11日別紙配布                   

(4)九州地区大学体育大会(漕艇競技)の復活手続き
  @  希望大学参加で実施する。
       自艇参加であれば熊本江津湖コース(1000m4レーン)でいつでも可能
       来年度から球磨川坂本村荒瀬コース(1000m5レーン・2000m3レーン)
       も利用可能
  A  九州地区大学体育大会(漕艇競技)実施案を作成する。
       (例)医学部を含め、全大学参加で学生チャンピオンを決定する。
          SS +2 +4 +8 女子SS +4 総合優勝方式 ・
        できれば、毎年荒瀬ダムでできないか
  B  九州地区大学体育大会(漕艇競技)実施案に同意校(10校以上)を募り、

私とボート
               1963年熊大工学部金属工学科卒  小崎久光

1.まえがき
熊本の龍水会会長の清田先生から「会社に務めながらボートをやってきた人のボートとの関わり」について何か書いてほしいとの依頼を受け、私も今年で丁度60歳の還暦を迎えるのを機会に、私のボート人生をまとめて見ました。

2.熊大ボート部への入部
私が入学した1959年5月の昼下がりのことであった。
この時、私は同級生で背の高い森君と二人で工学部の裏門を出て、子飼橋の方へ向かって歩いていたら、一人の男が前を立ち塞ぎ、まず森君を見ながらボート部へ勧誘し、ついでに私の方を見て、コックスも足らんから君も入らんかと勧誘した。
この人は、3年の内田と言い、ボート部のキャプテンだと自己紹介した。
私達は高校時代に何も運動らしきものはしていなかったし、あまり体育系に入ることはなんとなく気が進まなかったが、逆に高校で運動をしていなかったからこそ、大学でしか出来ないこともやりたかった。
そこで、その週の土曜日の午後に、集合場所の上江津湖の江藤ボート店へ行った。
そこには、2年生の荒木さん、小佐井さんと、3年生の内田さん、谷口さん、松永さん達が待っていた。
江藤ボート店の裏庭に架台があって、その上に1艇の細長いボートが置かれていた。
それが、私とボートとの40年にもなる長い付き合いの出会いであった。
そのボートはシェルフォアと言う4人乗りのボートで、艇の名前はもう覚えていない。
当時の熊大には医学部にもボートの同好会があり、ナックルフォアとシングルスカルを各1艇持っていたが、こちらはシェルフォア1艇のみであった。
その年、1年生は私達の他に、工学部の藤田、中尾、合志、武藤、市川、理学部の緒方、森川、薬学部の塗本、岩本君等が入部した。

3.熊大ボート部での練習
その頃のボート部は、江藤ボート店の庭の隅に小さな小屋があり、それが部室であった。
その中にはボロボロの汗臭い、汚れた短パンやシャツが、壁の釘や梁から引張ったロープにぶら下がっていた。
その小屋で着替えて、前庭で柔軟体操や筋力トレーニングをしたら、5人がシェルフォアに乗って上江津から下江津へ向かい、残りの部員は部員の弁当を持って、江藤さんの店のオワンボートに4、5人づつ分乗して下江津へ下り、その頃には無人島になっていた中の島に上陸して、練習の順番を待った。
シェルフォアの乗艇練習は専任のコーチがいるわけではなく、先輩部員の漕法指導を受けながら必死に漕ぐだけであった。
時々は現在の龍水会会長の清田先生も見えられていた。
私はコックス要員として入部したが、「コックスは将来漕ぎ屋のコーチも兼ねるため、漕ぐ練習もせにゃいかん」と言われ、体の大きい漕ぎ屋と一緒に漕がされた。
私は何も分からず、ただ夏の暑い日差しの元で、オールを動かし続けた。
当時の漕法は、キャッチの直前でオールを反すやり方で、新人にはキャッチが不確実になり、腹切りが多かった。
薄水色に赤い線の入ったブレードが水の中から上がり、それが汗にしばたく目に眩しく光り、オールを引き続けることで満足感に浸っていた。
その頃は私自身は体は小さかったが、若いし、スタミナはあり、「練習がきつか」と言ったことはなかった。
漕ぐのに慣れたら、いよいよコックスをさせられた。
コックスは先輩の小佐井さんがいて、「コックスとは…」といろいろ教えてもらった。
しかし、楽だと思ったコックスも、上江津から下江津へ下る水路にアベックボートが
沢山出ていて、これを遠くから声を掛けて水路を確保するのに、1週間もせずに声が
潰れてしまった。
また、この水路には漁師の網が仕掛けられていたり、曲がりくねった水路で、斎藤橋は木製で橋桁も狭く、特に江津橋を出たところに大きな竹の杭が立っていて、急カーブを描いて通り抜けたものだった。
また、江津湖での練習では、熊大独特の「藻に注意!」と言う掛け声があった。
中の島の前方に湖底がやや浅くなった個所があり、ここに細長い藻が生えており、これが湖面に出ていて、オールを引掛けるとリズムが乱れたり、オールをぶっつけあってブレードを壊す恐れがあったからである。
当時の江藤ボート屋は若夫婦の方が店をやっており、そのお父さんは裏の方でボートの修理やペンキ塗りをしていた。
2年の時だったと思うが、そのお父さんにシェルフォアを作ってもらったのが、「江津」か「竜田」であるが、漕ぐのに重かったことだけが印象に残っている。
しかし、この艇は壊れるのも早かった。
艇も増えたので、艇庫がいると言うので、斎藤橋の傍で、荒れたままになっていた五高の艇庫を借りて艇を置いたが、付近の子供達にいたずらされると言うので、艇を天井から吊るして保管した。
その艇庫の前に五高のフィックスが水に沈んだままになっていたことを覚えている。
この頃の練習は、筋力トレーニングと言えば、鉄棒とバーベルとエキスパンダーのみで、
漕法練習は、バックダイと乗艇のみであった。
この漕法練習は先輩が見てくれて、注意してくれるのだが、人によって言うことが違い、こちらの頭の中は、ただ暗中模索するのみであり、ただ、ただ力一杯漕ぐのみであった。
今考えると効率の悪い練習をしていたものだと思う。
当時は、九州には九大、熊大、西南大の3校にしかボート部はなく、熊大は弱かった。
熊大は九大との定期戦と琵琶湖の朝日レガッタに出るくらいであった。

4.ボート部の資金活動
熊大のボート部は資金が無く、学生課へよく交渉に行ったが、弱くて名前も売れないボート部には冷たかった。
遠征費を稼ぐため、ダンスパーティや映画鑑賞会やレコード音楽鑑賞会を開催した。
しかし、あまり儲からず、ダンスパーティやレコード音楽鑑賞会は大体5〜3万円位の儲けで、映画鑑賞会を大洋デパート(現在の城屋)のホールで開いた時は10万円位
(現在では100万円ほどの価値)ほど儲かり、喜んだことを覚えている。
その頃は運動部同士がパーティ券を委託販売するため、私のポケットには売らなきゃならないパーティ券が始終あったし、金属工学科の後輩の連中に試験の傾向と対策を教えることと交換に券を買ってもらい、随分迷惑掛けた。
でも、昔も今も金のないことだけは変わりが無いようだ。
私も貧乏な家の倅で、お金には縁が無く、合宿や遠征には行けず、正選手は諦め、部員の不足の穴埋めをやったりしながらボート部の生活は楽しんだ。

5.熊本国体
1961年に熊本で国体があると言うので、熊本県に漕艇協会が設立され、荒瀬ダムで設立式典が行なわれ、熊本日日新聞に乗艇の様子が写真に載った。
初代の協会長に熊大学長をされた鰐淵さんがなられた。
熊本に漕艇協会が出来ても、熊本でボートを漕ぐことの出来る人は熊大のボート部員しかおらず、高校生や社会人に教えることとなった。
私も沢山の高校生に教えたが、1965年の岐阜国体で恵那峡へ行った時に、若い女性から声を掛けられビックリしたら、彼女は八代の高校時代に私からボートのコーチを受けたそうで、後輩が国体に出場したので、応援に来たとのことであった。
また、熊本県代表に百済来村の青年団のチームが選ばれ、熊大の合宿の時に教えたのだが、教え方が良かったのか、習ったほうが上手かったのか分からないが、熊本国体では3位になったのには驚いたのと、嬉しかった。
だが、ボート部員も昼間は先生だけど、夜になると青年達が焼酎ビンとドンブリを持つて合宿所に現れ、「こるば飲まんと、公民館に泊まらせん」と言って部員を追っかけ回した話もあった。
また、国体を開催するためには審判員も沢山必要になるため、ボート部員は審判員の講習も受けさせられた。

6.江津湖の思い出
熊大でボートをやれば、思い出は江津湖のことであろう。
1953年に熊本市を襲った大水害以前の江津湖は透き通った、冷たい、綺麗な水を満々と蓄えており、夏場は熊本の子供達の水遊びの場所であった。
昔は中の島に茶店があり、ラムネやサイダーを買って喉を潤していたが、それも大水害以後なくなった。
大水害で、土砂が流れ込み、底が浅くなり、水は濁り、水面は狭くなった。
現在は水前寺の池も、江津湖も涌き水が減り、水面も下がって、水は汚くなり、昔日の面影もなくなっているのを見ると淋しい。

7.東芝でのボート
1963年東芝の鶴見工場に入ったら、配属された課の課長がボート部とヨット部の部長をしておられ、「今日はボート部のデモンストレーションがあるので見に行こう。」と誘われて同行した。
ボート部員達が工場の横の運河でナックルフォアを漕いでいたが、ムカデみたいにオールは揃わず、笑いながら見ていたら、「お前がコーチしろ。」と言われてしまった。
これが東芝ボート部との36年間の長い付き合いのなれ初めである。
この時、東芝のボート部は2年前設立され、1年先輩の東工大のボート部を出た人が監督をやっていた。
ボート部員は高校卒業した人ばかりで、オワンボートも漕いだことのない人達であった。
丁度、同期入社で京大ボート部出身の西村君がいて、彼を誘って、コーチを始めた。
その夏、折角練習したのだから他所のチームとお手合わせしたいと思い、その年の国体予選に申し込んだら、出場クルーが少なく、2杯レースとなり、勝ってしまい、山口国体へ出た。これが東芝の国体出場の始めとなった。
その後、私が監督になり、新潟、岐阜、福井国体と続けて出場し、神奈川県漕艇協会の理事もしていた。
ある時は、協会から電話で全国高校総体の審判を頼まれ、当日会場へ行ったら、プログラムには審判長の所に自分の名前が載っていて、大会の最後には審判長講話までやらされたこともあった。
この頃は会社の景気も悪く、残業や出張も無いため、5時過ぎると全員が集まって乗艇練習をした。暗くなるとランタンを点けてまでボートの練習をしていた。
毎年、国体へ出場するため、厚生課の課長からは「ボート部をオール東芝の特別強化チームに指定したい。」と言う話があった。
私は「ボートの選手の寿命は短く、強化選手を退いたらプロ野球の解説者みたいに会社以外で生活できるわけではなく、会社の仕事では同期の人に遅れを取ることになり、選手の後の生活を考えると強化チームにしたくない。あくまでも会社生活の余暇としてのスポーツと言うことにしたい。」と答え、了承され、今日に至っている。
ところが、ボート部長である所属の課長から「そろそろ昇格しなければならない時期に来ているのに、いつまで国体、国体と会社を休んで、遊んでいるのだ。」と言われ、監督を下りて部長になり、一線からは身を引いたが、コーチだけは続けてきた。
その後も、東芝のボート部は会社の好景気の時は、県予選でも落ちるし、不景気の時は
国体へ出場することを繰返してきた。
不景気の時に東芝ボート部が強かったのは、練習時間が取れたからであり、その頃は選手も30人程いたし、チームが強ければ人も集まった。
現役のボート部員は殆ど高校卒のオワンボートも漕いだこともないズブの素人だったが、この人達を2〜3年で対外試合へ出場出来る正選手に育てた。
しかし、次第に新人の採用数が減ってきたことと、体育系が嫌われ、現役選手が年を取ったり、国体も地区予選があり、それを乗り越えられなくなってきている。

8.東芝の練習
乗艇練習は、平日は昼休みに筋力トレーニングとインターバル走法と、5時から工場の横の運河(直線距離で約500m)で乗艇練習を行ない、レース前の土曜日曜には相模湖のユースホステルで合宿して練習した。
これらの練習の結果は、ホートの試合の成績だけでなく、社内駅伝大会ではそのチームにボート部員が何人入っているかで結果を予想できる程であった。
相模湖での練習は、午前午後共2時間とし、夫々20,000m位を漕いだ。
私はシングルスカルで追いかけながらコーチするのだが、入社した当時は体力もあったが、数年すると相手がいかに遅いナックルフォアと言っても、筋力トレーニングもせずに練習の時だけスカルで追いかけるのはさすがに疲れ、昼飯も食べられなくなる程であった。
ユースホステルでの昼飯だけでは量も、カロリーも不足するため、私が別におかずを作って食べさせていたが、数年後には私のスタミナ不足でそれも出来なくなった。
漕法は同期の西村君と夜遅くまで、お互いの納得の行くまで話合ったものだった。
この時、東京オリンピックで見た外国チームの漕ぎ方や日本漕艇協会誌は参考になった。
要は、キャッチ直後の蹴りの強さと素早さをどう得とくさせるか、ストローク全体を使った有効な漕ぎ方は?、キャッチのオールの入れ方は?、フィニュシュのオールの動きは?等々を理論的に考えた。
また、これらのイメージや体の動きを選手に解説して伝えた。
それは彼ら一人一人が後輩をコーチ出来る程詳しく教えた。
現在のどこの大学の現役選手でも、その漕ぎ方を見ていると、エルゴメータでの練習が多いせいか、キャッチ直後の蹴りの弱さが目立つし、ストロークが有効に使われていない気がする。
これは、熊大出身の徳元、永野、前田君と京大出身の佐藤君の4人でチームを組んだ時も、キャッチの時の悪い癖はなかなか直らなかった。
その時、新人へ最初から正確な漕ぎ方を教える大切さを知らされた。
しかし、徳元君達が1週間に1回だけの乗艇練習だけで、国体県予選で現役の北里大を破った時は嬉しかった。
是非、熊本に専任のコーチを置き、最初から育てる体制がほしいものである。
コーチは、ただ学生時代に漕いでいただけでは駄目で、しっかりした理論と教える情熱を持つた人でなくてはならない。

9.私の東京オリンピック
私も若い時には夢を持った。
1964年の新潟国体にはナックルフォアとシングルスカルとを出場させた。
シングルスカルで出場した西村君が決勝でオリンピック候補選手に水をあけて800m位まで進んだ時に足が痙攣し、手だけで漕いで、3位に入賞した。
これに勢いづいて、東京オリンピックを狙おうと言う事になり、私と西村君は2人で戸田コースの傍で合宿練習をした。
彼が漕ぎ、私が自転車で土手を走りながらおかしいところを注意したり、8ミリカメラで撮影して、検討したりした。
今では会社も休暇取得を奨励しているが、当時は連続休暇取得なんてとんでもないと言う状態であったが、無理やり休暇を取った合宿であった。
その頃、戸田には宿も無く、昔旅館をやっていた戸田橋傍の家の1室を借りて合宿したが、炎天下の練習と、夜は暑く寝苦しく、宿が国道の近くであったためトラックや救急車やパトカーの音で寝付けない夜を過ごしていた。
やっと全日本選手権大会当日になったが、2人共バテてしまって、2000mが物凄く長く感じた日になった。
しかし、オリンピックはボート競技を観覧席から実際に見て、心は高鳴り、感動したものであった。

関東龍水会
あれは何時のことだったか、最初は中村鉄雄君達が戸田へ来た頃であったか、私は戸田へ激励に行った。
その後、熊川君達や佐々木君や西村君達等が毎年戸田へ遠征して来るようになった。
私は現役の顔色を見ていたが、練習疲れと、何かあせっているのか、大抵の年のクルーはこれらの入り混じった顔をしていて、私は早くから戸田へ来ずに、乗艇調整だけが出来れば良いといった日程で来た方が良いのではないかと思った。
漕ぎ方を見ても、艇速の出る漕ぎ方ではなく、コーチの必要性をつくづく感じた。
その頃は熊大の在京先輩も少なく、まして戸田へ来る先輩は少なかった。
その内に佐々木君から呼び掛けがあり、毎年熊大クルーが来るし、在京先輩も増えて来たので、関東地区でも龍水会の支部を作りたいと言って来た。
そこで龍水会関東支部の設立会が開かれ、在京の先輩には嶋津さんや内田さん達がおられるにもかかわらず、時々顔を出していた私が初代の会長に選ばれ、以来20年間位会長を務めた。
佐々木君も私を選んだ責任を感じていたのか、実によくやってくれ、私はほとんど操り人形みたいに佐々木君の言う通り動いていれば良かった。
それまで熊大は他所の大学のボロ船を借りていたのに、彼のお陰で戸田に新艇「武夫原」を置くことが出来た。
1985年、私が頼りにしていた佐々木君が御巣鷹山で亡くなった時は本当にがっかりし、悲しかった。
なんで!、よりによって、あの飛行機に乗っていなくてもいいじゃないか!と思った。
それからしばらくして、何時までも会長をやっていてはならないと思い、熊川君に後を頼んで、今日に至っている。

11.地域活動
現在、神奈川県には神奈川県ボート協会があり、去年の神奈川国体を取り仕切った。
(今年は熊本国体であり、頑張ってほしいものである。)
しかし、10年前に横浜市の鶴見区の森永製菓の工場の後ろの鶴見川に漕艇場ができたのを機会に、横浜市ボート協会が設立された。
横浜市ボート協会が主催する大会は、毎年4月にはお花見レガッタがあり、6〜7月には市民を対象にしたボート教室が開催され、秋には市民レガッタが開かれる。
(鶴見川のレガッタは、橋と橋の350mの距離で、3レーンのミニ・レガッタである。)
この市民レガッタには、東芝ボート部員のOBが夫婦でオーシャンスカルのダブルスカルで出漕することもある。
また、神奈川県ボート協会が主催する大会は、春に神奈川県民レガッタ、夏に国体県予選、秋に相模湖レガッタが開かれる。
これらの他に、全日本実業団選手権や、近県の戸田のお花見レガッタ、山梨県の河口湖レガッタ、千葉の小見川レガッタ等を加えると、相当な数のレースがある。
(東芝ボート部は、これらの中から適当に選んで出場している。)
特に横浜市ボート協会の催しには、東芝ボート部、市役所ボート部、鶴見地区の地元の同好会の皆さんが協力している。
(地元チームには、飲み屋の常連で結成したチームもあるし、PTAで仲間になったお母さん達のチームやその子供達のチームもある。)
また、横浜市内の複数の市立高校の体育の一環としてのボート教室もある。
私はこれらのボート教室の先生をやり、頼まれれば、練習に来たクルーのコーチもやり、また、各レガツタでは東芝ボート部のコックスもやるのは勿論だが、他所のチームの頼まれコックスもやっている。
広く市民の皆さんにボートの楽しさを知ってもらい、ボートへの理解者が増えて、その人達やその子供さん達がボートに興味を持ってくれれば…と思っている。
これは私が40年にも亘ってボートを楽しませてもらったお返しだと思っているし、私自身もいまだに楽しんでいます。

以上が40年に亘る私のボート人生であります。
《ボートを愛し、楽しむ人が増えることを何時までも願っています。》
《最後になりましたが、佐々木君のご冥福を祈りますとともに、残されたご家族のご多幸を祈ります。》
(詳細は、朝日文庫から「日航ジャンボ機墜落」として発刊されています。)
                         1999年4月9日

夏目漱石とボート



                  熊本県ボート協会
                              審判長 松村忠彦


熊本県内には、3つのボートコースがある。今回、第54回国民体育大会会場として整備された菊池市竜門ダム班蛇口湖ボートコース(5レーン2000m常設)、昭和35年国民体育大会会場として使用した八代郡坂本村の球磨川荒瀬ダムボートコース(4レーン、1000m)、そして明治29年から使用している熊本市江津湖ボートコース(4レーン1000m常設)である。

夏目漱石は、明治29年(1896)4月13日に熊本の第五高等学校へ英語の教師として着任し、英国留学のため離熊する明治33年7月までの4年間を熊本で過ごしている。後に、現在熊本みかんの産地である小天温泉への旅を素材に『草枕』を、また阿蘇旅行を素材にして『二百十日』を発表している。
第54回国民体育大会「人、光るくまもと、未来国体」を機会に、文豪夏目漱石と熊本のボートとのかかわりについて紹介したい。

(熊本のボートのはじまり)
熊本の第五高等学校に端艇部創設の機運が起こったのは、明治28年(1895)日清戦争終結の年である。わが国最初の対抗レースである東大と東京師範学校との回航レースが行われて12年後のことである。当時の第五高等学校龍南会雑誌にボート導入を要望する投書記事がみられる。少々長く、難解な文章であるが当時の世相を伝えるために引用する。

「運動の種類多しと雖、我が国に於いて国民的遊技として、大いに奨励さるべからざるもの三あり。曰く撃剣、曰く柔道、曰くボート是なり。前二者は、古の武士の課業となり居りしものにて、今日なほ全国に行はる。至る処、カチ々々ドサ々々の声を聞かざるはなし。彼の春気よりも和に、秋気よりも烈しき、日本の精神大和魂は、実に之により養成せられたり。而して今なお之によりて発育膨張しつつあるなり。ただボートは、三府二三の学校を除けば、殆ど之なしと云うも不可なからん。夫れ我国は海国なり。故に我国民は海国民たらざるべからず、而も桃源洞裏の海国民たるにあらずして、世界の大海国民と相馳駆する。大々的大海国民たらざるべからず。而してボートは、我国民が、此大々的大海国民たるに於て、必須欠くべからざる用具なりとす。何となれば、ボーチングの普及は、我国民の海事思想を発達せしむるに於いて、大勢力を有すればなり。試に思へ。全国尋中以上幾万の学生が、腕鉄の如く、好んでで海若と遊び喜びて怒濤と交わるに至らば、是実に隠然海上の一敵国にあらずや。かくのごとくなれば、我国民の海事思想の発達は、実に驚くべきものあらんとす。嗚呼ボートなるかな。ボートなるかな。・・・略・・・大にボートを造れ。而して大いに漕げ。吾人は龍南会に向ひて、切にボート部を新設せんことを望みて已まざるなり。」

この白髪三千丈的檄文には、長い鎖国を解き28年、清国との戦に勝ち、大国意識高揚の時代が伺えると共に、若者の熱い思いが伝わってくる。
こうして明治28年11月(1895)、まだ艇も艇庫もない状態で龍南会附属端艇部が新設され、翌年明治29年1月25日に、新艇花陵、金峰、龍田の3艇が、江津湖に浮かび、同年4月12日には、 第一回春季競漕大会が行われている。

(端艇部長としての夏目漱石)
 夏目漱石年譜によれば、明治17年に大学予備門予科(後の第一高等中学校)に入学し、18年の欄に「ボートレースを好んだ」とあり、また平成7年日本漕艇協会が発行した「漕艇75年」に、「わが国最初のボート」の項に、当時のボートマンとして夏目金之助他5名の名前が紹介してある。

その夏目漱石は、第1回春季競漕大会の余韻が残る翌日、明治29年4月13日午後2時に上熊本駅に到着するのである。端艇部ができたばかりのところに、ボート経験者の登場である。端艇部規則第3条に「本部に部長1名を置き、名誉部員に就き之を推選す。」とあり、早々にその経験を買われて夏目教授が2代目部長に推選されている。

ここで名誉部員について説明が必要である。第6条に「名誉部員は部費として入部申し込みの当月より毎月別表に掲ぐる所の金額を寄付するものとする。」とあり、別表として俸給額により7段階の寄付金額が定められている。名誉部員とは、教職員スポンサーでもある。漱石が名誉部員として申し込みをしたのか、推選されて名誉部員なったのかは定かではないが、めでたく(?)端艇部長となり、月俸額百円の漱石は、別表最高額の月三拾銭を「毎月下旬直に会計係に受領し」する事になったのである。ちなみに通常部員は十ヶ月間毎月金八銭、十ヶ月以降は毎月金三銭であった。11条の規則のうち、5条が部費徴収関係の条文であり、当時の部員も100年たった今と変わらず艇建造費等の捻出に苦心している様子がうかがえる。

同年12月には、艇庫建築もあり、端艇部は資金難であったことは推察できる。また教師を名誉部員にするという発起人の名案も、税金とは違い思うようには集まらなかったようである。漱石が部長になった翌年、明治30年5月20日には、教職員に再度、寄付を仰いでおり、発起人に端艇部長夏目金之助の名がある。

(日清戦争の戦利品のカッター回漕で百円の赤字)
平成8年(1996)、漱石来熊100年にあわせて熊本日日新聞社は「漱石と熊本」のタイトルで特集記事を連載した。その中で「学生と心温まる交流」として「第五高等学校着任早々、ボート部長に選ばれたが、明治30年8月、日清戦争の戦利品である大型のボート2隻を海軍省から譲渡された折のこと。佐世保から舟を受け取って帰る途中、ボートを修理するために上陸した港で、回漕に当たった生徒たちが大いに飲食し百円の赤字を出してしまった。生徒たちは教師たちから募金を募ったが、この生徒が普段から職員には乱暴者として人望がなかったため、集まらず、それを聞いた漱石は自分で全額払い、同時に部長も辞してしまったのである。」という内容である。

「人望のないボート部員」と「飲食で百円の赤字」を結びつけると一般には、無責任な生徒が、ボート入手を口実に佐世保に行き、遊興三昧のあげく、部長の夏目金之助に尻拭いをさせたようにも読める。果たしてそうであろうか。100年前の出来事であり、また、人格者夏目漱石を賛美する記事ではあるが、ボートマンの一人として当時の事実関係を考察してみることにする。

再度の寄付依頼した1ヶ月後の明治30年6月12日、校長名で鎮守府長官宛に譲渡照会をして、佐世保鎮守府より、日清戦争の戦利品である「鎮遠号」に艦載されていたカッター2艘を譲り受けることになった。各々「大連」、「旅順」と命名し、廻航準備のため佐世保に2名の部員が滞在している。しかし、そのままでは使用できず、帆その他を調整する必要があったため、7月末まで佐世保町字濱田町海岸通船係留場で修理を行っている。

その後、8月2日百貫港に回漕、8月3日に百貫港をたち、4日に無事江津湖に到着したのである。カッターは、8人漕ぎと14人漕ぎであり、漕ぎ手だけでも22名、舵手を加えると24名が必要であった。廻航に参加者したメンバーは、五高生16名、元五高生1名、商船学校生徒2名、攻玉社生徒1名、済々黌生徒5名、数学院及び鵬翼舎生徒5名の計30名であった。五高端艇部員だけでは、足らずに元五高生を含めて参加を呼びかけたのであろう。

回漕の際には、握飯2籠、菓子類4箱、梨及び鶏卵数十個、飲料水十余瓶、前照灯4個、蝋燭数斤を用意している。全て廻航に必要と思われる食料、備品等である。なお「人望のないボート部員」と「大いに飲食」の記事は見いだせなかった。

(当時の百円は、現在の貨幣価値でいくらぐらいか)
このように、カッターを譲り受けることはできたが、部員の滞在費、修理費そして30名による佐世保から江津湖までの廻航経費が予想以上にかかり、百円という赤字になったものと考えられる。当時の百円が今の貨幣価値ではどの位かを比較するために、卸売物価指数や米価を参考にしたが実状にあわない。

その頃2番目に転居した家賃が高いのを嘆き「名月や十三円の家に住む」と詠んでいることから1万倍位であろうと推察するしかない。回航事業の当初予算についての記録はないが、先に述べた当時の端艇部の会計事情からは、修理費等を含めた十分な予算は無理であり、百円程度の赤字は、妥当な範囲であり、当時のボート部員のみの責任ではないと考えるが、いかがだろうか。

(智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。)
冒頭の借金補填は、このような海国日本、大国日本の意識高揚の風潮と、端艇部はできたものの資金的には何の裏付けのない現実との狭間での出来事である。夏目金之助は着任早々、断れぬまま海国日本という時代の風潮の中で、2代目部長に推選され(初代部長の任期は1年足らずである。)、金之助本人が明治30年10月10日創立記念日に教官代表として講演した「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ、師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ・・・」を実現すべく艇庫建設、カッター回漕と尽力し、資金難に苦慮して27年分の名誉部員の部費に相当する借金を肩代わりすることによって端艇部部長を辞任する道を選択したのであろう。

「草枕」は、明治30年12月の小天温泉旅行 が素材とされているが、借金を補填する夏目金之助の心情は、まさに「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」であっただろう。なお、明治31年10月に端艇部拡張趣意書が出されているが、すでに端艇部長夏目金之助(31歳)の名はない。  

(人、光るくまもと、未来国体)
熊本のボートは、この100年、夏目漱石に限らず多くの先達の物心両面の支援を受けて発展してきた。1999年第54回国民体育大会を行うに当たって、熊本県と菊池市には、2000m常設コースという全国に誇れるボート環境を準備していただいた。

われわれ熊本のオアーズマンは、菊池市班蛇口湖ボートコースを九州のボートのメッカとして発展させていくという目標を持つことになった。今後、このコースを中心にして強化のみならず、多くの人々が参加できるスポーツにしていきたいと考えている。すでに、ジュニアボート教室や菊池、熊本、八代の市民レガッタは、順調に活動しており、この活動は21世紀のさらなるボートの発展につながるものと思う。全国のオアーズマンの皆様のご支援をお願いしたい。

お断わり
上記文章は、1999年に行われた国体プログラムに掲載されていたものです。この他、HPに掲載されている歴史的な記述は、全て松村氏のご尽力によるものであり、感謝する次第です。


青年江原会ホームページ イートンカレッジ関連


 イートンカレッジのボート部が1998年に来日した際の訪日記で、 学生のチャーリーが書いたものです。
 訪日自体は、日英両大使館が企画、実行されたものでかなりオフィシャルな行事でした。もともとは、慶応大学(高校)、学習館大学の両校への訪問が主たる内容だったのですが、熊本高校へも来ていただくことになりました。(すごい栄誉です!)本文には、熊本や東京で歓迎された驚きや喜びが書かれています。また、1998年10月23日に行われた、江津湖でのボート対決の模様も書かれていますので、見れなかった人は必見です。
 これまでイートンカレッジとは、・熊高生のイートン校へのサマースクール、イートン校事務総長の来熊 、熊高校長のイートン校訪問などで交流を重ねてきました。
 下記の日程は、1998年10月に正式にイートンボート部をご招待したときの行事日程表です。青年江原会としても歓迎レセプションの主催や阿蘇観光など、積極的に歓迎行事をお手伝いしました。
  ○来熊された方々
    ワトソン事務総長夫妻、ハイ(サマースクール担当事務官)夫妻
    英国駐日大阪総領事
    ボート部部長、ボート部コーチ、ボート部(生徒14人)
21日(水) 成田着後、熊本へ 
学校主催夕食会
22日(木) 阿蘇観光 
歓迎会(ティーパーティ) 

青年江原会主催 歓迎会
19:00からティアにて 
(ティア:本山町イエローハットの1階)
23日(金) 親善レース(14:00から江津湖にて) 
男子フォア 
女子フォア 
男子エイト 
(参加団体:熊高、熊大、学園大他) 

江原会主催公式レセプション
18:00からホテルキャッスルにて
24日(土) 東京へ



後世に残しておきたい資料

 私は今年の1219日で満75才を迎える事になったが、ボートとの関わりは半世紀になる(4年まで続けた大学ボート部。八代高校12年間、済々黌高14年間、尚絅高校2年間のボート部顧問。平成9年から熊本国体の準備を含めて、地元小中学生のボートクラブ、現在も続いている菊池高校の外部コーチを含めての19年間)。

 今ようやく、県ボート協会の役を離れ、顧問として気楽にものを言えるようになり、過去を振り返る余裕も出てきた。手元の資料を整理している時に、是非、残しておきたい資料が2編出てきたので、県ボのHPの資料に中に残してもらいたいと思います。

 私が現役中に、八代東高校坂本分校のボート部がなくなり、それを引き継いだ八代東本校のボート部もやがてなくなった。しかし、八代南高、菊池女子高校、菊池高校、尚絅高校にボート部が出来、一時期慶誠高校、熊本農業高校にも部が出来た。かっては天草水産高校(当時)に出来たこともあった。現在、活動しているのは、熊本市の学園大付属高校(中学校部も)、熊本高校、済々黌高、八代市の八代清流高校、秀岳館高校、菊池市の女子高校、菊池高校の7校である。

 資料の一つは、明治時代から活動してきた八代中学のものである。その伝統を継いできた八代高校のボート部は今や艇庫、艇はあるものの人はいない。

あと一つは、済々黌のボート部創設に関わるものである。協会の50年誌にも載せていないようなので、エピソードとして残しておいたらいかがと思います。

2016・6・21記  和田建一郎。

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